何とはなしに、話半分

男子学生の考え事などをお送りするところ。

溶解の仕業

月曜日だというのに大学の授業も仕事も無いから未だに夏休みが終わっていないのかと錯覚するような一日だった。逆に言えば、まだ夏休みが続いているような錯覚をしていたからこそ、こんな過ごし方をしてしまったのかもしれないけれど。

結局八月六十二日だ。

何もかもが温く気怠い時間に吸い込まれて、アイスティーに氷が溶けていくように僕の精神も緩んでいった。音も無く時間は流れ、気づかないうちに僕の寿命をゆっくりと溶かしていった。すべてが無音だった。

 

こういう日はいつも以上に生きる気力なんてものが湧かなくなる。

「森羅万象うんざりだ」、とあるポップスの歌詞が頭で反復される。ひどく脳が霞んだ。刺激を求めて映画を観ようと思いたちノートパソコンを開く。

初めはこの間観たフランス映画をもう一度観ようと思った。少し優しくなれるような気がしたから。でもこれを観てしまったら人恋しくなりそうだ。

 

恋愛を主題にした映画を結局避けて、戦争映画を観た。戦争映画はカタルシスを得る手段としてありだと感じた。

人が大勢死ぬシーンを観て、自分が今生きている意味や価値を計り知ることができれば尚良かった。

そういった訳で「二〇三高地」と「総攻撃」という二つの映画を観た。

 

二〇三高地」は説明するまでもなく日露戦争を舞台にした作品で、三時間を超える大作だった。詳しい感想は述べないけれど、三時間を無駄にしたとは感じさせない、悪くない作品だと思う。

「総攻撃」は第二次世界大戦時のアメリカ軍がフランスに上陸した時の話だ。こちらはもっと古い作品で、著作権の切れたいわゆるパブリックドメインのものらしい。

モノクロの映画をちゃんと観たのは初めてかもしれない。古い映画だったので正直あまり期待せずにB級映画くらいに思って観始めたが、思いの外面白かった。

B級戦争映画は二、三本観たことがあるが、一緒にしては失礼な程よくできていたしメッセージ性もある。

 

二本も観終わるともう夕方近くなっていたので一度外へ出て、夕食の買出しがてら散歩をした。夕食のあとは何をしていたかうまく思い出せない。きっと何もしていなかったのだと思う。

そして変な時間に少し眠ってしまったのでまた少し家を出た。寂しさを紛らわせるために人が多いところに行きたくて新宿に向かった。だけどもう電車もなくなる時間だからほとんど人は残っていなくて、酔っ払いとホストやガールズバーの女の子しかいない。

 

少し昔のthe band apartのdiaryで、深夜でも眩しいくらいに照明を灯している店のショーウィンドウがかえって無人であることを強調している、みたいなことを木暮さんが書いていたような気がするけど、本当にその通りな気がした。

 

無人の夜の街を歩いていると、相変わらずその街を支配してしまったような気分になる。時折通りかかるタクシーや自転車が僕を現実の世界に引き戻してくれる。

こういった時に、同じ家に家族がいる人が羨ましくなる。きっと家族の寝顔でも見ればこんな気持ちなど吹き飛んでしまうに違いない。もしかしたらまだ起きていて、くだらない話に付き合ってくれたかもしれない。

 

などとないものねだりをしながら、コンビニで買った冷たい麦茶を半分ほど一息に飲む。昼間の僕のように温い夜風で撫でられ続けていた眼球の裏が脈を打つのが分かる。

拍動というのは不思議だ。ベッドの上で聞けばやすらぎをもたらすのに、違う場所できくだけで身体に力がみなぎる気分になる。

歩行者用の青信号が点滅したから走ってみた。そのまましばらく歩道を走り続ける。夏目坂を駆けて下ると、心臓が熱くなりながら全身に血液を送っている。

 

夜風はまだ温いままだったし、結局生きている意味もよく分からないままだけど、とりあえず僕は生きていることを実感して部屋に戻った。

日記を書いたら寝よう、明日は授業があるから大学に行こう。

落ちも山もないけれど、今日はここまで。