何とはなしに、話半分

男子学生の考え事などをお送りするところ。

由縁なき所以

東京都などの地域に緊急事態宣言が発動された。オフィスでの仕事やライブハウスの営業の自粛が要請され、より一層人々は液晶画面の中に娯楽を求めるようになる。

かくいう僕も一日中液晶画面からの光を目に浴びて過ごした。国が緊急事態だといえば社会はすぐにそれを受け入れ、相応の態度を取る。僕にはそれが羨ましく思えた。僕が緊急事態だと喚いたところで、社会は何一つ変わりはしないだろうから。

 

ーー帰る家がない。これは僕の数あるコンプレックスの一つであり、僕にとって最大のものでもあった。ひどく疲れた時、食うに困るほど困窮した時、逃げ込む場所がない。

一体誰のせいでこうなってしまったのだろうか。おそらく僕ら家族がいくら考えても答えが出ることはない。まるでそうなってしまう運命であったかのように、抗いようもなく我々は散らばっていった。

最後に残った僕と父親が今も同居を続けていたとしても、結局そこは僕の帰るべき家と言っていいのか分からないし、少なくとも逃げ込みたいと思える場所ではなかっただろう。

 

しかし、そうはいってもどのような家であれば帰るべき場所だと心の底から思えるのか、自分にもよく分かっていなかった。

そのような家が自分に存在した経験が無いから、あくまでそういう家があるはずだ、という観念上の話でしかない。

きっと僕はロール・プレイング・ゲームに登場する「はじまりの町」のような場所を求めているのだ。

そこには誰が主人公であっても等しく愛情を注いでくれる母親がいて、子を信頼して旅に送り出してくれる父親がいて、時折顔を見せると邪険そうな態度を見せながらも心配してくれる幼馴染がいる。

僕にもそんな故郷があったらどれだけ救われただろうか。好きでもない都会に閉じ込められて、帰る場所も無い。そう考えるだけで胸が苦しくなる。

 

「はじまりの町」はどんな町でもよかった。海が見える港町でも、やわらかな風が吹く山村でも、僕には愛せる自信があった。

それさえあれば、普段はどんなに空気の汚い街でも生きていけるし、人の悪意が見え透く社会にも立ち向える気がした。

 

今の僕には、エントランスだけが虚勢を張っている古いワンルームの部屋しか、帰るべき場所は無い。

しかしそれも、その地点の座標が地図アプリに「自宅」として設定されているだけの場所だった。僕の着る服や食料がそこに置かれ、眠るためのベッドがあり、シャワーを浴びることができる。ただそれだけだ。

 

この家で暮らし始めて四年目になっても、「どこかへ帰りたい」という矛盾した衝動が僕を何度も揺さぶった。行ったこともない山奥の村に思いを馳せ、想像上にしか存在しない港町に胸を高鳴らせた。

そこには僕の帰りを待つ両親と、昔から僕を知る幼馴染や近所の人々がいて、僕が帰れば皆顔を揃えて出迎えてくれる。美味い食事や酒が振る舞われ、そこは暖かい笑い声が充ち溢れる。

そこにはガラス張りのビルや流行りの店は一つも要らないし、さびれたスーパーマーケットと何代続いているかも分からない煙草屋、それと垢抜けていない喫茶店さえあればそれでいい。

そんな風景が、僕の生きている間だけでも続いてくれたら、それだけでよかった。

 

こんな町は、僕にとっては限りなく贅沢に思えるけれど、少なくない人には願うほどのものではなく、幾らかの人には贅沢どころか願い下げなくらいかもしれないような代物かもしれない。

それなのに、僕には一生をかけても手に入れることのできないものなのだ。その事実が、僕の胸を締め付けて離さない。だからいつも、僕は深呼吸をしても休まる心地がしない。

 

幼い頃から引っ越しを繰り返して、いくつもの土地や家を使い捨ててきた僕にとって、一生ものの「故郷」という存在は、眩しくてはっきりとは見えないような、曖昧なものでしかなかった。幼い頃から僕と同じような転居の多い生活を送っていた両親も同じような心境なのかもしれないが、一応彼らには生まれ育った実家がまだ存在する分、僕よりも故郷のイメージは形を成しているだろう。

この僕の憧憬は、まるで原罪かのように僕の両肩にのしかかっている。そして死んでしまった後も僕に帰る場所はない。とてつもなく運が良くて天国に辿り着けたとしても、きっと故郷を求めてしまう。天国とて、僕にとっては終着点でしかなく、決して「はじまりの町」ではないのだ。

 

そんなことを考えている間に今日も夜が明けて陽が顔を出し始めている。僕は数時間後には、今月最後の仕事をしに家を出なくてはならない。

大学にも入れないから、いよいよ明日からはこの設定上の我が家に引きこもるしかない。

いっそ温泉宿にでも泊まりに行きたい気分だった。都会の喧騒から離れて、少しでも肩の力が抜けるなら、どこでもいい。

本を読み煙草を吸い、熱い湯に浸かって体を温めれば、心もいくらか楽になるはずだ。世間がこんな状況だとしても、自己療養ができるならすればいい。

そう決心しつつ僕は冷めてしまったアールグレイティーを飲み干して歯を磨き、ベッドに潜り込んだ。