何とはなしに、話半分

男子学生の考え事などをお送りするところ。

laundry

夕方に降り出した雨は、どうやら朝まで降り続けるようだ。大粒の雫が信号機や街灯に照らされてやけにゆっくりに見える。僕は外に干せない洗濯物を抱えて近くのコインランドリーに来ていた。タオルを乾燥機に放り込んで百円玉を二枚入れる。残り時間を示すディスプレイに20のデジタル数字が灯るのを確認して、僕は傘を手に再び外へ出た。

 

秋の夜風と雨のせいで肌寒い中、僕は半袖のTシャツ姿でビニール傘を差して歩いていた。瞬く間にスニーカーの中に水が染みてきて、靴下までぐっしょりと濡れてしまったが、それも構わずに歩き続けた。外苑東通りを南に向けて下り、しばらく進んでまた引き返した。途中に二人の酔っ払いを追い越し、二組のカップルとすれ違った。

 

あっという間に二十分が過ぎ、僕はコインランドリーへ戻りタオルの乾き具合を確かめる。バスタオルが微妙に湿っている気がしたので、百円の硬貨をもう一枚投入した。今度は外へ出ず、中で待つことにした。誰もいないランドリーの中。誰かが使用している洗濯機の水流の音と、僕が回している乾燥機の音が静かに響く。パタパタとタオルが回り叩きつけられるのをじっと眺めていると、一人と男がランドリーへと入ってくる。洗濯物を袋から取り出して乾燥機へ詰め込んだと思ったら、外に置いてある自販機で飲み物を買い戻ってきた。まるで三十分前の自分の映像を見ているかのようだった。

 

僕の乾燥機が止まり、運転の終了を告げるアナウンスが聞こえてくる。実家にいた頃の給湯器の音声を思い出し、温かい風呂に入りたくなる。帰ったら少しだけ湯に浸かってから寝ようと思った。どうせすぐに布団に潜っても、しばらく眠れないのだから。

 

僕は夜になると不安で堪らなかった。ベッドに入ってもすぐに明日が来てしまうことも、明日になっても特に幸せを感じる瞬間もなく一日が終わってしまうことも、僕はこのままで良いのかと誰かに問われている気がして落ち着かなかった。今の暮らしが、今の仕事が、そして向かっている将来がこれで良いのか。いくら考えてもきっと正解が分かることも無いのだろうけど、いくらでも考えてしまうのがこの手の悩みには付き物だった。

 

せめて誰かが隣に居てくれたら、誰かの肩に身を寄せることができたら、少しは楽になれていたのだろう。柔らかい髪の毛の匂いや体温に気が紛れて、心地よく眠れたのだろう。そう思うと、先ほどよりも寂しくなった。外の雨も気にせず、どこかへ飛び出していなくなってしまいたかった。結局のところそうすることもできず、僕は風呂場で狭いバスタブにお湯を溜めて、電気もつけずに膝を抱えて温まる。このまま朝が来るまでこうしていたかった。

 

僕は風邪を引く前に浴室から出て体を拭き、髪を乾かして歯を磨く。気づけばランドリーにいた頃から一時間以上が経っていた。休みの日は時間が経つのが早く感じる。過ぎて欲しくない時間も季節も、気づけば僕の後ろへと流れて行って、僕は不安なまま先へ先へと送り出される。移ろう季節にも、離れていく人にも、僕は心の中で別れを告げることもできず、ただただ寂しさを感じて膝を抱えているだけだった。

鳴り響く踏切、列車の向こう、振り向いた誰か

今にも雨が降りそうな曇り空だった。あるいは、既に雨が一頻り降った後なのかもしれない。とにかく、そんな空模様だった。雲の切れ目から差し込む日光が、大気に架かるレースのカーテンのように煌めく。僕は二日ぶりにまともに外に出て、湿気で満ちた晩夏の黄昏時を吸い込む。じんわりとした熱が僕の肺に流れ込み、狭い部屋に置き去りにしてきた現実感を取り戻したような気になる。それと同時に、随分と前に失くしてしまった夏への高揚感や誰かを好きになった時の感覚を懐かしむ。こんなにも蒸し暑いのに、僕の生活は全くもって潤いに欠けていた。

 

マンションのエントランスを出て駅に向かって路地を歩いていると、タンクトップ姿の男性が花壇の前で打ち水をしていた。ただでさえ飽和した空気に水を撒く男の姿は、どこか含蓄のある哀愁さを醸している。こういう路地裏の何気ない一コマが、僕は何だか好きだった。そんな彼を横目に見ながら通りを抜け、大通りに出て駅の階段を下る。すれ違う人々の多くは傘を持っていた。

 

地下鉄に乗り、いくつか先の駅で乗り換える。目的地は何となく決めて家を出たつもりだったが、自ら向かっているというよりは引き寄せられるようにして進んでいた。誰かに会いに行くでもなく、特別な用事があるわけでもない。昔よく見ていた景色を唐突に再び見たくなって、あるいはもうすっかり変わってしまっているかもしれない街並みを見てみたくなったのだ。そこは大きなマンションの裏手にあるゴルフの練習場で、周囲の暗闇をやけに明るく照らすナイター照明が印象的な、どこにでもある街の一景だ。それでも僕にとっては特別な景色で、大事な思い出の一つだった。

 

目的地の駅に着き、踏切を超えて通り沿いに歩いていく。橙色の街灯が等間隔に並ぶその通りの左手には古びたパチンコ屋とクリーニング屋があり、右手には大きなスーパーマーケットと比較的新しい団地が人々の営みを強調している。緑豊かな団地の中庭には遊歩道が通っていて、ベンチや子供用の遊具が備え付けられている。この場所もまた、誰かにとって特別で思い出深い景色なのだろう。耳を澄ませば踏切の鳴る音が聞こえ、それが終わると車のエンジン音がいくつか重なって響く。もうほとんど日は暮れていて、辺りは薄暗くなっていた。買い物袋を両手にぶら下げた主婦の姿や、子供を自転車の後ろに乗せて帰るサラリーマンの姿がまばらに見える。彼らはこれから温かな食卓を皆で囲むのだろう。僕の生活からは十年近く前に無くなってしまった光景だ。

 

感傷に浸りながら通りを歩いていると、ようやく目当ての場所に着いた。予想はできていたが、僕の目の前にあの景色は存在していなかった。かつてあったはずのゴルフ場は跡形もなく消えてしまっていて、そこには五、六階建ての高級マンションが我が物顔で聳え立っていた。建物名で調べてみると、僕がこの街を離れてから一年程経ってから建てられたようだ。僕の思い出の場所はすっかり知らない景色になっていて、それでもそこには誰かの生活が脈々と続いている。そうしてまた誰かの思い出の場所となっていくのだ。僕はもうそこに必要なくて、もしかしたらいつか元の景色さえ忘れてしまうのかもしれない。そんな無常さをひしひしと感じたが、思っていた程悲しいというわけでもなかった。センチメンタルな体を装ってはいるが、案外僕は冷めた人間なんだろう。そんなものだ。僕という人間は所詮、そういうものなのだ。

 

最後にもう一回くらいあの景色を見たかったな、という気持ちは確かにあったが、過去に別れを告げるためにもこうしてここへ来て、全く別の景色になってしまっている現実を目の当たりにすることができて良かったのかもしれない。九月になれば、僕はまた一つ別の世界へと踏み出すことになる。ようやく社会に出ることが決まり、忙しい毎日に没頭することになるだろう。覚えるべきことがたくさんあって、責任や成果に縛られるようになる。そしてこれまでみたいに自分の生きている意味が分からずに嘆いたり、人恋しさに黄昏れたりする暇もなくなるのだと思うと、どこか寂しくもあった。空虚で彩りに欠ける日々だったけれど、やはり僕にとって必要な時間だったように思える。人よりも時間をかけて折り合いをつけて、止まっていた時計のネジをやっと巻き直すことができたのだ。そう考えれば、この三年弱といった苦しい歳月の記憶も、世話のかかる子供を慈しむような手つきで撫でることができる。

 

直に僕も今とは別の街で生活をし始めて、新しい思い出の場所を形成していくようになるのだろう。今とは違う部屋で今とは違った暮らしをする。当たり前のことだが、今の僕には少し特別な意味を持つような気がする。ここで僕の人生のチャプターが切り替わるという確信があったし、客観的に見てもそうなるだろう。そしてそれは、一見不可逆の変化であるようにも思える。僕はもう今には戻れなくなる。今の僕があの日に帰れないように。ゴルフボールが打ち上げられる音を聞きながら、煌々と輝くライトの光と暗闇の境界をぼんやりと眺めていたあの頃の自分に。

 

マンションの一室のベランダに男が立っているのが見える。色々な苦労の末に築いた安住の地なのだろう。室内から照らす明かりに象られたシルエットは疲れを感じさせる猫背だったが、どこか満足気で幸せに満ちているように見えた。僕の思い出の場所で暮らす彼の暮らしが、少しでも豊かなものになることを祈りたいと思った。

 

僕は踵を返して駅に向かう。カンカンというけたたましい音と共に踏切が閉まっていくのが見えた。程なくして特急列車が轟音を鳴らして通り過ぎていく。生温い風がその後を追って僕を撫でていく。線路の向こう側を歩いていた髪の長い女性がこちらを振り向いた。一連のシーンがやけにスローに見えた。昔見たバンドのミュージックビデオのようなワンシーンだ。そんな絵になる風景を、俯瞰したような目線で見つめながら、遮断機が上がるのをぼうっと待っていた。もちろん、帽子が風に飛ばされて高く舞い上がるような演出は現実にはないし、こちらを振り向いた彼女もすぐに前を向いて遠ざかっていく。もう彼女の顔もほとんど思い出せない。それでいいのだ。

 

駅前のロータリーに流れてきたタクシーからスーツ姿の男が降りてくる。大型スーパーからは荷物を抱えた小柄な主婦が出てくるのが見えた。ここは彼らにとって帰ってくる場所だ。懐かしさに駆られて出掛ける場所じゃない。僕がこの街に来ることはきっともうないのだろうという予感がした。改札を通り抜ける時に、僕はこの街にそっと別れを告げて、上りの列車が来るのを待った。まだ薄っすらと西の空が紅く照らされていて、名残惜しむように太陽が地平線へと消えていくところだった。

1K, To go, Laundry

僕は7畳にも満たない1Kの部屋で一人、夜食とも言えない粗末な食事を作ってそれを胃に送り込んだ。時刻はたぶん、朝陽が昇る少し前だった。随分と味気ない。食器を片付けて熱い紅茶を淹れる。部屋を暗くして音楽をかける。目を閉じると僕は生温い泥の沼に沈んでいくような気分になる。しばらくそのままじっとしていると、不意に咳込んでしまった。本当に溺れてしまったかのように息が上手くできない。苦しくて、肩で息をしながら目尻に浮かんだ涙を拭う。心拍数がかなり上がっているのが体の中から伝わった。紅茶を飲んでも落ち着かず、また咳をする。

 

僕はいつ買ったかももう覚えていないハイライト・メンソールをポケットにねじ込み、財布も持たずに家を出た。最寄りの喫煙所までフラフラと歩き、誰に急かされているわけでもないのに着くなり三、四本立て続けに吸った。思いの外冷たい空気が体をじんわりと冷やしていく。僕はコンビニまでまたフラフラと歩き、温かいカフェラテを買った。カプチーノがあれば良かったのにな、とどうでもいい愚痴を心にこぼしながら、少しづつ明るくなってきた朝空の下を歩いて喫煙所に戻る。もう一度煙草を咥え、火を点ける。さっきは煙草の火がぼうっと暗闇に灯っていたことを思い出し、随分と長い間ここにいたことを認識する。道理で体も冷えるわけだ。そのまま二本目を吸い終え、ようやく家に戻ることにした。

 

玄関の扉を開けると、溢れ出すほどの衣類が左手にある洗濯機から顔を出している。最後に洗濯機を回したのはいつだっただろう。僕はすっかり、洗濯嫌いになってしまっていた。明け方にベランダに鳩が二羽止まっていたのを見てから外に洗濯物を干すのが嫌で、それを言い訳にしばらく洗濯物を溜め込んでいたのだった。今日は洗濯をしよう、最悪コインランドリーに行って乾燥機を使えばいい。そう自分に言い聞かせながら、近所の迷惑にならない時間が来るのを待つことにした。再び熱い紅茶を淹れて、最近買った漫画を読み進める。主人公とその家族が初詣に行く話だった。それにつられて自分の家族のことを考えてしまう。僕らがまだ「家族」だった頃のことを。

 

僕は四人家族の次男として生まれた。当然、四人の中で一番最後に生まれてきたわけだ。今では只の赤の他人になってしまった両親も、当時は僕の誕生を喜んでくれたことは想像に難くない。四歳離れた兄も、幼いながらに新たなメンバーが家族の一員となったことを喜んでいたに違いないし、物心つく前の僕自身ですら未だ見ぬ世界に期待を膨らませていただろう。新たな命の誕生には、何もかもが真っ新で、誰もが祝福すべき尊さがある。その命が形作られるまでにどんな経緯があろうと、その誕生の瞬間だけは、罪も恐怖もなく希望と祝福に満ちているはずだ。赤子は決して悲しくて泣いているのではない。

 

だからこそ、歳を重ねるごとにこの世が疎ましく、憎らしい物だと思い、自分が生きていることにすら恨みを募らせるようになってしまった事実がとてつもなく悲しいのだ。生まれたときは誰もが喜んでいたはずなのに。そして今でも、僕の家族は僕がこれからも生きていくことを望んでいて、言い換えれば先に死ぬことは許されないのだろう。誰かを愛するということは、そういうことだ。優しくも残酷な、何とも人間らしい営みである。僕はそれがとても苦しかった。嫌でも生きていかなければいけないことも、誰かからの愛情を素直に喜べないことも。家族は絆しだと、昔の人はよく言ったものだ。この世と自分とを繋ぎ留める絆でもあり、縛り付ける枷でもあるのだと。しかし昔の日本人と僕の置かれている状況の一番の違いは、「出家」という疑似的な死が選択肢として採り得ないことだ。いや、採り得たとしても選べなかっただろう。何をするにも口ばっかりで、行動の伴わない僕には。

 

そうこう考えているうちに、外はすっかり明るくなって、いつもの朝が街を覆っている。大型連休も終わり人々は寝床を出て身支度をし、正常な日常を送るのだろう。The Earth turns from sanity.という歌詞を思い出す。こんな陰鬱としたことを考えながら眠らずに夜を明かす僕を置いて、世界は正常に回っていくのだ。僕はいつもその回転に乗り遅れて、周回遅れのままとぼとぼと歩いていくので精一杯だ。変わりたいと思っても、上手くいかなかったり、拒絶されてしまったりする。何度もそうだった。今もそうして失意の中にいて、虚ろで悲惨な一日を徒に消費しているのだ。

 

そんな僕も連休中に一つだけ行動を起こすことができたのを思い出す。ある企業のインターンに応募してみたのだ。およそ一年ぶりのインターンということになる。選考に通るともあまり思えないが、もしも実現すればまた何かが変わる気がしていた。一年前の僕が少しだけ変われたように。僕が再び少しでも変わることができたら、家族や友人からの愛情を素直に受け止めることができるだろうか。この世に生まれてきたことを恨まずに、心の底から感謝できるだろうか。真剣に、そして前向きに、生きていきたいと思えるだろうか。誰かと同じように、僕にも人を愛せるのだろうか。もしもそうなら、僕は家族に今まで考えてきたことも、そんな自分から変われたこともようやく打ち明けられるように思える。

 

そんな淡い期待で少しだけ気分が紛れる。どれだけ面倒でもちゃんと洗濯をして、コインランドリーに行ったら、随分と遅れてしまっていた僕も、この世界の回転に少しは追いつけるだろうか。その勢いで部屋の掃除もしてしまおう。そうすれば少しは胸を張れるだろうから。

空っぽになるなら、埋めなくてもいいのに

四月までの僕に比べたら、今の僕は相当に充実していた。吐き出したくなるくらいの仕事に埋もれ、笑顔の絶えない仕事仲間にも恵まれ、頑張り屋で可愛らしい恋人もできた。

目の前のものをすべて巻き込みながら流れ出す氾濫した川の水のごとく、綺麗なものも汚いものも区別なく押し流していくような日々だ。僕は溜息を吐く暇もなく、忙しさに身を任せ、気づけば季節は梅雨入りに差し掛かっていた。

鬱屈とさせられるこの時期の湿気が僕の精神も蝕み、肉体的な疲労も相まって僕には一つめの限界を迎えている実感があった。

 

以前の僕も、将来のことを考えるのがとても苦手だった。未来のことを考えると度の合わないレンズ越しに見ているかのように、視界がおぼろげになってしまうのだ。何もかもがぼやけて、歪んで見える。まっすぐ歩くことも儘ならない。

その原因として、前までの僕には仕事も周囲の人間も何もなく、孤独に苛まれていたからだと考えていた。しかし、今の僕にも同じような症状が顕れていることを考慮すると、必ずしも孤独や貧困といったものが原因ではないようだった。

 

そこで、僕の生き方というか人生についての一種の諦めが、やはり問題として根元に横たわっているのだと改めて考えるようになった。

人間はどうせ死ぬのだ、という事実について疑いのある人間はいないだろう。そしてそれを理解しているからこそ、人々はその来る死に備えて様々な対策を施したり、自分の生きた証を残そうと努力をしたりしているのである。

そういった人々の健気な営みに対して、どうせ死ぬのだから空虚な足掻きである、と冷笑を浴びせるのがいわゆる実存的ニヒリズムであり、それ自体が無意味で虚な哲学的姿勢だと自己をも嘲笑の的にしている悲しい人々である。

 

かくいう僕も、大いにそのうちの一人であった。何もかもに絶望し、何をするにも本気になれない。その言い訳が、どうせ死ぬのだからすべて無駄になる、というものだった。

そういった構え方が如何に格好悪く、何も生み出さないかを理解しているが、自分の精神を安定させるためには一定の効果があった。努力をして空回った時、他人を信じて裏切られたとき、自分の無力さに心を打ち砕かれたとき。数え始めればキリがない失望の瞬間に対して、敬虔な信者が祈りを捧げるかのように僕は「どうせ死ぬのだから」と心で唱えていた。

 

そのうちに、僕は如何に生きるかという観点をすっかり捨て去ってしまい、「如何に死ぬか」という点にしかピントが合わなくなっていた。道理で先のことを考えてもぼやけてしまうのだ。

如何に努力をして華々しい人生を歩もうとも、どれほど怠惰な日々を過ごし孤独に埋もれようとも、最終的な死に様をどのように飾るか、というテーマが僕にとっては重要であり、その通過点としての人生にはあまり執着を抱くことができなかった。

 

けれど、僕の中に芯のように存在する価値観が一つだけあった。死ぬ時は、誰かを助けて死にたいのだ。これだけ聞くと漫画の読みすぎだとか、映画の観すぎだと思われるだろうし、実際にはその通りでもあるのだが、ここでの「助ける」という言葉の意味は、かなり広く取られている。

もちろん創作の世界でよくあるような、強盗や通り魔から誰かを救うといった劇的な展開もいいのだが、あまり現実的ではない上に、それは誰かを助けたというよりは誰かの代わりに死んだだけと言い換えることもできる。

 

僕のいう「助ける」というのはもっと精神的な意味合いも含んでおり、誰かが悩み、或いは疲れ果て、生きることに溺れかけているような時にそっと手を差し伸べたいのだ。そうしてその人が救われてくれたらそれでいい。誰かの血が流れることもなく、誰かが逮捕されることもない。そんな平和な救いがあればいいのだ。

だからこそ僕は人一倍働き、誰にでも優しくするよう心掛けている。僕がいてくれて良かった、助かった、と思ってくれる人がいればいるほど、僕は満たされ、そして理想の死に近づいていくような心地がするのだ。

 

どうせ空っぽになるなら、その心の隙間を必死に埋めようとしなくていいのに。そんな言葉がこれまでの文章を読んでいて出てくるだろうが、僕は死ぬ時にきっと初めて完全に満たされ、それと同時に空っぽになるのだ。だからそれでいい。

寝息のかかるその距離に

僕は壁にもたれながら彼女と電話していた。時刻はすでに深夜の二時を回っていて、二人とも起きているのか眠っているのか音声だけでは判別がつかないほどに疲れ切っていた。

 

彼女はここ最近の数週間、仕事が上手くいかずに落ち込んでいた。僕はそれを見るのがたまらなく辛かった。僕にできることは文字通り何でもやった。東へ西へ走り回り、昼も夜も問わず頭を捻った。彼女の力に少しでもなりたかったし、彼女の負担が少しでも減るなら僕はそれでよかった。

見返りも別にいらなかった。強いて言うなら、休みの日に一緒に遅くまで寝て、パジャマのままで映画でも見ながら家でゆっくりするような、溶けたシャーベットのような一日を過ごせたら幸せだった。それもこれも、互いの仕事が落ち着くまで叶わぬ夢なのかもしれないが、夢は夢として見ている時期も楽しいものではあった。

 

僕はいつから彼女のことが好きだったのか、今でもよくわからない。初めて会った時から好きだったような気もするし、日に日に好きになっていったような感覚もある。オフィスで初めて見かけた日は、互いにほんの一瞬挨拶を交わしただけで顔や名前もほとんど覚えていなかったけど、それでも何かを感じ取っていたのかもしれない。

はたまた、いまだに彼女のことを僕はまだよく知らなくて、本当の意味では恋に落ちてすらいないのかもしれない。彼女のことを好きであろうと努力しているような状態でもあった。そうでないと、僕はまた独りに戻ってしまいそうだから。

 

彼女の家に泊まりに行った日はいつも、右肩に彼女の熱を感じながら、僕は浅い眠りとシングルベッドの狭さに苛まれながら、それでも彼女の寝息や短い髪に愛おしさを覚えていた。手を伸ばせばすぐそこに安心して眠っている彼女がいる。その事実が僕をいくらか安心させてくれた。僕は時々、彼女が眠っていることを確認するかのように彼女の肩に鼻を寄せ、目を瞑って数秒間くっついていた。じんわりと鼻先が暖かくなってくるこの感覚が、たまらなく好きだった。

 

彼女と離れている夜は、たまらなく声が聞きたくなった。電話をして耳元で彼女の声を聞いていると、驚くほどに安心して眠気がやってくる。そしてそれは彼女も同じようで、しばらく無言でそれぞれ作業をしていると、気付いたら寝息が聞こえてくることが多い。僕はそれにまた愛おしさを感じながら、彼女の眠りを確かめるように小さな声で名前を読んだ。大抵は何も返ってこずに、僕の声が虚しく電子空間をさまよう。それでも僕は、彼女が眠りにつけたことに安堵して、自然と口角が上がるのを感じた。

 

本音を言えば、いつも寝息のかかる距離で、隣で眠っていたかった。狭いベッドの上でも肩を寄せ合い、手を伸ばせば髪を撫でられ、目を開ければそこに彼女の姿がある。互いにどちらからともなくキスをして、微笑みながら再び眠りにつく。そんな時間が何よりも好きだった。

僕は彼女の寝息や寝返りを打つ音だけを耳に、明日またオフィスで会えるのを心待ちにしていた。僕が彼女よりもいつも後に寝るのは、単純に寝つきが悪い所為でもあったが、それ以上に彼女の寝息や衣擦れの音を聞いているこの時間が好きなのだろう。たとえそれが電話越しであっても。

A stray jaguar, Lodestone, Silver lining

いつもより少し早めに目を覚ますと、外は雲もほとんど出ていない気持ちのいい晴れ空だった。ここ数日間は雨が降り続け気が滅入るような肌寒さだったから、今日ぐらいは、と珍しくきちんとした朝食を取った。シャワーを浴びる代わりにバスタブに湯を張り、森林の香りを謳う緑色をした入浴剤を入れて長めに浸かった。浴室の電気を消して、狭いバスタブに沈み込むようにして僕は体を温める。カーテンを開けてある居間の窓から入る僅かな光が、キッチンの濃い青色の戸棚に反射して浴室に届く。ぼんやりと照らされる浴室内は、森林というよりは暖かい海の底のようだった。それが異様に心地よくて、僕は体が冷めかけるまで湯に浸かっていた。

 

風呂から上がって髪を乾かしている間にも、外の世界は徐々に明るさを増していた。僕は居ても立ってもいられなくて、財布と煙草だけを持って弾き出されるようにして家を出た。行先は特に決めていなかったが、何も考えずに東へ歩いた。緩やかな上り坂を一つ越え、反対側に下りきったところのカフェでアイスコーヒーを買う。すぐさま喫煙所に立ち寄って煙草に火を点けた。昼休みのサラリーマンで賑わうそこは、まさに憩いの場だった。僕はいつものハイライト・メンソールを立て続けに二本吸って、再び外に出た。神田川沿いに歩いて外濠公園のベンチで少し休むことにした。風が強いこと以外は、すべてが最高の一日に見えた。

 

そのまま高校時代によく通った四谷方面へ歩き続け、いつの間にかできていた大きなビルの角を曲がって帰路に就き始める。街路樹の木漏れ日が僕の視界をまばらに照らす。秋の気配を感じる暖かな色合いが街に溢れていた。退屈な並木道も、今日はそれほど悪くない。そんな風景を進みながら、僕は考え事にのめり込んでいた。

 

昔から僕は宛てもなく歩くのが好きだったが、最近は一人で歩くことを避けている。特に、こんな風によく晴れた日には。理由は自分でよく分かっていた。堪らなく寂しくなってしまうのだった。ただ、寂しさを紛らわそうと思っても、人に頼るのがどことなく怖かった。今の自分の寂しさを他人に打ち明けることも、誰かの楽しそうな暮らしを聞くことも躊躇ってしまうのだった。そうして外界との繋がりを極力避けて自室に籠る暮らしは、不意に傷つくことはないかもしれないが、すべてが無意味だった。いつまでもこんな暮らしを続けるわけにもいかないことは誰よりも分かっているつもりだったし、続けたいと思っているわけでもなかった。家に帰れば誰かが隣にいる幸せを僕は知っていたし、いつかはそれを再びこの身に受けたいとも思っていた。だからこそ寂しくなるのだ。しかし今の僕は、寂しさを感じるには何というか、取るに足らない存在なのだ。

 

ネガティブな思考を振り払うために、僕は帰ってから明るい映画を見ることに決めた。いつもよく見る戦争映画ではなく、男心をくすぐるスパイ映画でもなく、心温まるラブストーリーを見て自分を満足させたかった。誰かがこう言っていた。「自分の機嫌を自分自身で取れなかったら、ただのガキだ」と。僕はその言葉を信じて自分を慰めるのだ。大学生の頃に英語の授業で扱った映画の一つを見ることにした。妙な偶然だが、主人公を演じる俳優は最近見た戦争映画のそれと同じだった。映画を見終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 

長い間歩いていたこともあって一気に疲れを感じ、僕はベッドに体を投げる。じんわりと血液が体内を循環していくのが分かる。目を閉じればそのまま眠ってしまいそうだった。ふと、今日の景色を一枚も写真に収めていないことに気づく。せっかくなら一枚くらい撮っておけばよかったなと後悔しつつ、通った道を反芻する。そして、今年の三月頃に同じような経路で歩いたことを思い出した。同じようにコーヒーを買って外濠公園で休憩したことも、その日の昼に寄った風変わりな店主がいるラーメン屋のことも。その店は今月に入ってから休業しているようだった。

 

夕食を取るべき時間になっても食欲はなく、冷たい水だけを飲んだ。近所に新しくカレー屋が出来ていて少し気になっていたけど、また別の日に行くことにするほかない。腹が減る頃には、もう閉店してしまっていることだろう。僕はベランダで電子煙草を吸い、瞬く間に消えていく煙を目で追いながら、遠くの景色を眺める。一定間隔で点滅を繰り返す航空障害灯が寂しく夜空に輝く、そんな景色が好きだった。寂しい東京の夜空だ。新宿のビル街を見下ろしながら浸かったとあるホテルの露天風呂を思い出す。まるで書き割りの背景のような現実感の薄い街並みが、夕暮れの淡い茜空に溶け込んでいくようだった。去年の四月のことだ。

 

この東京という街には色々な記憶があり、色々な暮らしがある。僕のだけではない。一千四百万人もの人々が暮らし、それよりも多くの人が通勤や通学でこの街を訪れる。まさに星の数ほどの営みが、この街には存在する。にもかかわらず、寂しさがこの街を満たしている。都会というのはそういうものだ。青信号を知らせるメロディも、地下鉄がトンネルを走り抜ける音も、砂漠に消えていく細い川の水のように吸い込まれてしまう。誰かの助けを呼ぶ声も、誰かには届かずに虚空へと消えていくのだ。そんなことを考えながら、いまだに吹き荒れる秋の風を頬に受け、鼻をすすりながら煙草を吹かす。もう少ししたら部屋に戻ろう。そう思ってから五分以上が経っていた。風邪を引くまではやめられないのだろう。冷えたらまた湯船に浸かって温まればいい。水道代やガス代を気にするのは来月になってからでいい。そんな気分だった。

金木犀と夏の残り香、まだ少し硬い柿を齧る

今日は朝から天気が良かった。いつもよりすっきりと目が覚めたから、布団を干してシャワーを浴び、久しぶりに散歩に出かけた。

長袖のTシャツを着ていたが、袖を捲っても歩いていると額には汗が滲む。ずいぶんと涼しくなった様に思っていたけど、まだ夏の面影が消え去ったわけではなかったらしい。

 

とはいえ街の景色を見ると、すっかり秋模様だ。太陽の光もどこか黄色がかったような感じがして、柔らかさを湛えている。空の色は夏ほどの鮮やかさはなく、ソーダフロートのバニラアイスが融けてしまった後のような淡く白っぽい水色をしている。冬の空とも違う、この空の色が僕は好きだった。

「天高く馬肥ゆる秋」ということわざがあるけど、僕はこの表現も好きだった。秋のすべてが上手く込められていると思う。

 

僕は一時間ほどかけてゆっくりと歩き、とある大きな寺に辿り着いた。前にそこに来たのはきっと夏の初めの頃だ。境内に入ったのはその時が初めてで、荘厳な外見とは裏腹に烏が多くてがっかりしたのを覚えている。今日はどうだろうか、と恐る恐る石の階段を上り門をくぐると、人影は疎らにあるものの烏の姿は見当たらなかった。

僕は時計回りに境内を一周し、特に何かを見つけられたわけでも、綺麗な景色を見たわけでもなかったけど、満足して正面の階段を下りた。すれ違った猫が欠伸をする。陽だまりに溶け込むような日常の景色だ。

 

僕は家に向かいながら昼食のことを考えた。青果店の横を通りがかって、冷蔵庫の中に柿があったことを思い出す。いつしか僕の思考は昼食を飛び越えて、今夜は秋の味覚を食べようと決めていた。

家に帰ってからはコンビニで買ったサラダを食べ、眠気眼のままパソコンと睨めっこを続けていたが、何をしようにも心ここにあらず、という感じで手につかなかった。そして結局眠気を我慢できずにベッドに横になった。

 

一人ベッドで横になると、寂しいという感覚がふと蘇ってくることがある。ここ一年半くらいはほとんど誰とも寝ていなかったから、すっかり慣れてしまったと思っていても、時折思い出してしまうようだった。

肌寒い時に身を寄せ合えるのは、とても幸せなことだったのかもしれない。好きな人の髪の毛や首筋に鼻を寄せて匂いを感じることも、今の僕にとってはしばらくの間叶わないことなのかもしれない。そう考えると余計に人肌が恋しくなった。

 

僕はタオルケットを抱き込むようにしてうつ伏せになり、昼の眩しさから目を背けた。

隣に誰かいたとしても、今の自分は到底見せたくなかった。誰よりも僕自身が、僕を許せないのだ。

そのまま三十分ほど眠ったようだが、結局睡眠も上手く取れず、かといって集中力が戻ってくるようなこともなく、僕の精神は覚醒と微睡を行ったり来たりしていた。普段は兄から遊びに誘われれば優先的に応じるところだが、今日ばかりは誘いの連絡が来ないことを祈った。適当な理由をつけて断る気力すら浮かばなかったからだ。

 

日が暮れて辺りが暗くなっても、僕はやる気を見出せないままでいた。悪あがきをしようと本を広げてみたけど、何一つ内容が頭に入ってこない。情報が脳味噌に到達する前に揮発してしまうような、そんな感覚だった。

諦めて夕食の支度をし、先月行われていたある競技の世界大会の動画を眺めながら食べた。選手たちが熱くなって戦っている姿も、一か月後の僕にとっては過ぎてしまった夏のように感じられる。結局のところ僕の応援していたチームは、ブラジルのチーム相手に散々なスコアで負けてしまった。

 

僕はパソコンを閉じて椅子の背もたれに深く寄りかかる。今日はもう何をやっても上手くいかない気がした。

相変わらず隣には誰もいないが、それが救いでもあるように思えた。自分の弱さを見られなくて済むし、甘えてこれ以上弱くなってしまうこともない。その代わり強くなれるはずもないことには目を瞑った。

 

気が付けばあと一週間で誕生日を迎える。人生は長いといっても、時間に余裕があると思えるような年齢ではなくなりつつある。特にここ二、三年はそんな焦りに追われている間に過ぎてしまったようなものだ。

いい加減変わらなければ、と思い続けている状態が続いていることが、何よりも良くなかった。

そんな焦りもあったし、実際に自分の進路については考え直す時期に差し掛かっていたから、僕はこの秋からまた新たな環境に身を置くことにした。上手くいくかはわからないけど、何かを始めるきっかけとしてちょうど良かったのだ。

週末までにはスイッチを入れ直すことができるように祈りつつ、僕は皿の上の柿を口に入れた。まだ少し硬く、甘みも少なかった。普通なら残念に思うところだが、僕は少し嬉しかった。裏を返せば、僕の好きな秋はもう少し続いて、今よりも甘い柿を食べることができるようになるのだから。