何とはなしに、話半分

男子学生の考え事などをお送りするところ。

鳴り響く踏切、列車の向こう、振り向いた誰か

今にも雨が降りそうな曇り空だった。あるいは、既に雨が一頻り降った後なのかもしれない。とにかく、そんな空模様だった。雲の切れ目から差し込む日光が、大気に架かるレースのカーテンのように煌めく。僕は二日ぶりにまともに外に出て、湿気で満ちた晩夏の黄昏時を吸い込む。じんわりとした熱が僕の肺に流れ込み、狭い部屋に置き去りにしてきた現実感を取り戻したような気になる。それと同時に、随分と前に失くしてしまった夏への高揚感や誰かを好きになった時の感覚を懐かしむ。こんなにも蒸し暑いのに、僕の生活は全くもって潤いに欠けていた。

 

マンションのエントランスを出て駅に向かって路地を歩いていると、タンクトップ姿の男性が花壇の前で打ち水をしていた。ただでさえ飽和した空気に水を撒く男の姿は、どこか含蓄のある哀愁さを醸している。こういう路地裏の何気ない一コマが、僕は何だか好きだった。そんな彼を横目に見ながら通りを抜け、大通りに出て駅の階段を下る。すれ違う人々の多くは傘を持っていた。

 

地下鉄に乗り、いくつか先の駅で乗り換える。目的地は何となく決めて家を出たつもりだったが、自ら向かっているというよりは引き寄せられるようにして進んでいた。誰かに会いに行くでもなく、特別な用事があるわけでもない。昔よく見ていた景色を唐突に再び見たくなって、あるいはもうすっかり変わってしまっているかもしれない街並みを見てみたくなったのだ。そこは大きなマンションの裏手にあるゴルフの練習場で、周囲の暗闇をやけに明るく照らすナイター照明が印象的な、どこにでもある街の一景だ。それでも僕にとっては特別な景色で、大事な思い出の一つだった。

 

目的地の駅に着き、踏切を超えて通り沿いに歩いていく。橙色の街灯が等間隔に並ぶその通りの左手には古びたパチンコ屋とクリーニング屋があり、右手には大きなスーパーマーケットと比較的新しい団地が人々の営みを強調している。緑豊かな団地の中庭には遊歩道が通っていて、ベンチや子供用の遊具が備え付けられている。この場所もまた、誰かにとって特別で思い出深い景色なのだろう。耳を澄ませば踏切の鳴る音が聞こえ、それが終わると車のエンジン音がいくつか重なって響く。もうほとんど日は暮れていて、辺りは薄暗くなっていた。買い物袋を両手にぶら下げた主婦の姿や、子供を自転車の後ろに乗せて帰るサラリーマンの姿がまばらに見える。彼らはこれから温かな食卓を皆で囲むのだろう。僕の生活からは十年近く前に無くなってしまった光景だ。

 

感傷に浸りながら通りを歩いていると、ようやく目当ての場所に着いた。予想はできていたが、僕の目の前にあの景色は存在していなかった。かつてあったはずのゴルフ場は跡形もなく消えてしまっていて、そこには五、六階建ての高級マンションが我が物顔で聳え立っていた。建物名で調べてみると、僕がこの街を離れてから一年程経ってから建てられたようだ。僕の思い出の場所はすっかり知らない景色になっていて、それでもそこには誰かの生活が脈々と続いている。そうしてまた誰かの思い出の場所となっていくのだ。僕はもうそこに必要なくて、もしかしたらいつか元の景色さえ忘れてしまうのかもしれない。そんな無常さをひしひしと感じたが、思っていた程悲しいというわけでもなかった。センチメンタルな体を装ってはいるが、案外僕は冷めた人間なんだろう。そんなものだ。僕という人間は所詮、そういうものなのだ。

 

最後にもう一回くらいあの景色を見たかったな、という気持ちは確かにあったが、過去に別れを告げるためにもこうしてここへ来て、全く別の景色になってしまっている現実を目の当たりにすることができて良かったのかもしれない。九月になれば、僕はまた一つ別の世界へと踏み出すことになる。ようやく社会に出ることが決まり、忙しい毎日に没頭することになるだろう。覚えるべきことがたくさんあって、責任や成果に縛られるようになる。そしてこれまでみたいに自分の生きている意味が分からずに嘆いたり、人恋しさに黄昏れたりする暇もなくなるのだと思うと、どこか寂しくもあった。空虚で彩りに欠ける日々だったけれど、やはり僕にとって必要な時間だったように思える。人よりも時間をかけて折り合いをつけて、止まっていた時計のネジをやっと巻き直すことができたのだ。そう考えれば、この三年弱といった苦しい歳月の記憶も、世話のかかる子供を慈しむような手つきで撫でることができる。

 

直に僕も今とは別の街で生活をし始めて、新しい思い出の場所を形成していくようになるのだろう。今とは違う部屋で今とは違った暮らしをする。当たり前のことだが、今の僕には少し特別な意味を持つような気がする。ここで僕の人生のチャプターが切り替わるという確信があったし、客観的に見てもそうなるだろう。そしてそれは、一見不可逆の変化であるようにも思える。僕はもう今には戻れなくなる。今の僕があの日に帰れないように。ゴルフボールが打ち上げられる音を聞きながら、煌々と輝くライトの光と暗闇の境界をぼんやりと眺めていたあの頃の自分に。

 

マンションの一室のベランダに男が立っているのが見える。色々な苦労の末に築いた安住の地なのだろう。室内から照らす明かりに象られたシルエットは疲れを感じさせる猫背だったが、どこか満足気で幸せに満ちているように見えた。僕の思い出の場所で暮らす彼の暮らしが、少しでも豊かなものになることを祈りたいと思った。

 

僕は踵を返して駅に向かう。カンカンというけたたましい音と共に踏切が閉まっていくのが見えた。程なくして特急列車が轟音を鳴らして通り過ぎていく。生温い風がその後を追って僕を撫でていく。線路の向こう側を歩いていた髪の長い女性がこちらを振り向いた。一連のシーンがやけにスローに見えた。昔見たバンドのミュージックビデオのようなワンシーンだ。そんな絵になる風景を、俯瞰したような目線で見つめながら、遮断機が上がるのをぼうっと待っていた。もちろん、帽子が風に飛ばされて高く舞い上がるような演出は現実にはないし、こちらを振り向いた彼女もすぐに前を向いて遠ざかっていく。もう彼女の顔もほとんど思い出せない。それでいいのだ。

 

駅前のロータリーに流れてきたタクシーからスーツ姿の男が降りてくる。大型スーパーからは荷物を抱えた小柄な主婦が出てくるのが見えた。ここは彼らにとって帰ってくる場所だ。懐かしさに駆られて出掛ける場所じゃない。僕がこの街に来ることはきっともうないのだろうという予感がした。改札を通り抜ける時に、僕はこの街にそっと別れを告げて、上りの列車が来るのを待った。まだ薄っすらと西の空が紅く照らされていて、名残惜しむように太陽が地平線へと消えていくところだった。