何とはなしに、話半分

男子学生の考え事などをお送りするところ。

空っぽになるなら、埋めなくてもいいのに

四月までの僕に比べたら、今の僕は相当に充実していた。吐き出したくなるくらいの仕事に埋もれ、笑顔の絶えない仕事仲間にも恵まれ、頑張り屋で可愛らしい恋人もできた。

目の前のものをすべて巻き込みながら流れ出す氾濫した川の水のごとく、綺麗なものも汚いものも区別なく押し流していくような日々だ。僕は溜息を吐く暇もなく、忙しさに身を任せ、気づけば季節は梅雨入りに差し掛かっていた。

鬱屈とさせられるこの時期の湿気が僕の精神も蝕み、肉体的な疲労も相まって僕には一つめの限界を迎えている実感があった。

 

以前の僕も、将来のことを考えるのがとても苦手だった。未来のことを考えると度の合わないレンズ越しに見ているかのように、視界がおぼろげになってしまうのだ。何もかもがぼやけて、歪んで見える。まっすぐ歩くことも儘ならない。

その原因として、前までの僕には仕事も周囲の人間も何もなく、孤独に苛まれていたからだと考えていた。しかし、今の僕にも同じような症状が顕れていることを考慮すると、必ずしも孤独や貧困といったものが原因ではないようだった。

 

そこで、僕の生き方というか人生についての一種の諦めが、やはり問題として根元に横たわっているのだと改めて考えるようになった。

人間はどうせ死ぬのだ、という事実について疑いのある人間はいないだろう。そしてそれを理解しているからこそ、人々はその来る死に備えて様々な対策を施したり、自分の生きた証を残そうと努力をしたりしているのである。

そういった人々の健気な営みに対して、どうせ死ぬのだから空虚な足掻きである、と冷笑を浴びせるのがいわゆる実存的ニヒリズムであり、それ自体が無意味で虚な哲学的姿勢だと自己をも嘲笑の的にしている悲しい人々である。

 

かくいう僕も、大いにそのうちの一人であった。何もかもに絶望し、何をするにも本気になれない。その言い訳が、どうせ死ぬのだからすべて無駄になる、というものだった。

そういった構え方が如何に格好悪く、何も生み出さないかを理解しているが、自分の精神を安定させるためには一定の効果があった。努力をして空回った時、他人を信じて裏切られたとき、自分の無力さに心を打ち砕かれたとき。数え始めればキリがない失望の瞬間に対して、敬虔な信者が祈りを捧げるかのように僕は「どうせ死ぬのだから」と心で唱えていた。

 

そのうちに、僕は如何に生きるかという観点をすっかり捨て去ってしまい、「如何に死ぬか」という点にしかピントが合わなくなっていた。道理で先のことを考えてもぼやけてしまうのだ。

如何に努力をして華々しい人生を歩もうとも、どれほど怠惰な日々を過ごし孤独に埋もれようとも、最終的な死に様をどのように飾るか、というテーマが僕にとっては重要であり、その通過点としての人生にはあまり執着を抱くことができなかった。

 

けれど、僕の中に芯のように存在する価値観が一つだけあった。死ぬ時は、誰かを助けて死にたいのだ。これだけ聞くと漫画の読みすぎだとか、映画の観すぎだと思われるだろうし、実際にはその通りでもあるのだが、ここでの「助ける」という言葉の意味は、かなり広く取られている。

もちろん創作の世界でよくあるような、強盗や通り魔から誰かを救うといった劇的な展開もいいのだが、あまり現実的ではない上に、それは誰かを助けたというよりは誰かの代わりに死んだだけと言い換えることもできる。

 

僕のいう「助ける」というのはもっと精神的な意味合いも含んでおり、誰かが悩み、或いは疲れ果て、生きることに溺れかけているような時にそっと手を差し伸べたいのだ。そうしてその人が救われてくれたらそれでいい。誰かの血が流れることもなく、誰かが逮捕されることもない。そんな平和な救いがあればいいのだ。

だからこそ僕は人一倍働き、誰にでも優しくするよう心掛けている。僕がいてくれて良かった、助かった、と思ってくれる人がいればいるほど、僕は満たされ、そして理想の死に近づいていくような心地がするのだ。

 

どうせ空っぽになるなら、その心の隙間を必死に埋めようとしなくていいのに。そんな言葉がこれまでの文章を読んでいて出てくるだろうが、僕は死ぬ時にきっと初めて完全に満たされ、それと同時に空っぽになるのだ。だからそれでいい。