何とはなしに、話半分

男子学生の考え事などをお送りするところ。

夢にも視ない

「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蟬の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。」 

 

 僕は明け方の五時過ぎに友人の家を出た。晴れた春の朝は空気が澄んでいて、もうほとんど散ってしまった桜の花がやけにくっきりと見えた。東の方の空が赤く焼けているのを僕は遠い過去を振り返るようにして眺め、そのまま最寄駅から離れるように東へと歩いた。

コンビニで温かいミルクティーを買って、それを飲みながら一つ隣の木場駅まで歩いた。飲み終わった空のペットボトルはたちまち冷えていって、友人の家を出てすっかり冷えきった僕の体を写し取っているみたいだった。

 

電車に揺られている間も、僕は疲れているはずだったのにうまく眠れずに、二十分ばかり虚空を見つめていた。気づけば電車は神楽坂の駅を出たところで、鈍った頭で僕は降りる心算をする。

家に帰って僕はシャワーを浴びて歯を磨き、昨日のうちに使った食器を洗った。何だかひどくお腹が空いていたけれど、これといって食べるものが見当たらなかったから何も食べずにグラス一杯の水を飲んだ。

 

僕はテーブルに置いたままにしてあった小説を手に取り、中身を読むというよりは紙質をチェックするかのような手つきでページをめくった。

ところが読み始めてみれば、僕はこの小説を今朝のうちに読みきってしまおうという気になっていた。昨晩から一時間も眠っていないから鉄板を金槌で叩いたように頭が痛んだけれど、それでも僕は本を読む手を止めなかった。

二百ページ近い量の文章を一息に読んだのは久しぶりだったから、先ほどから続く頭痛も麻痺したように鈍く感じた。まるで痛みが僕の頭のはるか外側にあるようだった。

忘れかけていた空腹を無理やり思い出すようにして、僕はキッチンでスパゲッティを茹で、適当なソースと和えて黙って食べた。

マグカップに温かい紅茶を淹れてそれを飲みながら、僕は転がるような速さで読んだ小説の台詞を思い出していた。

 

本当の人生とはきっと何かを探しまわることなのだと、その男は言った。僕もそれを読んで、実際そうであるような気がした。

言葉にならない気持を胸に抱いたまま眠ることなんてできないのだ、と別の男が言った。僕も全く同意見だった。

 

冒頭で引用した台詞は、特に僕の胸の奥を揺さぶった。

僕は僕の弱さを好きでいられるだろうか。苦しさや辛さも引っくるめて、僕はそれらを好きだと言えるだろうか。

僕には到底、そんなことができるとは思えなかった。今にも逃げ出したいくらいに、僕は僕の弱さに怯え、憎む日々を送っていたから。

 

数時間前まで僕は友人と、また別の友人と三人で一つの部屋に居たはずなのに、それすら遠い過去の出来事だったような、ずいぶんと未来の出来事であるかのような、不思議な錯覚に見舞われた。

とにかく現実感というものが、僕の身の回りから消え失せていた。先ほど食べたスパゲッティの味さえ思い出せない。昨日の夜に食べたラーメンの味もだ。友人の家で吸った煙草の本数なんてものはいつだって覚えていないけれど、昨晩のそれは見当もつかなかった。

 

小説を読んだからでも、明け方に帰ってもまだ眠っていないからでもなく、僕は生きている心地がほとんどしなかった。

紅茶はとうに冷めてしまって、頭の痛みは今だに僕の頭の遠くで間抜けに漂っている。朝陽に照らされた部屋は嫌に明るく、僕はカーテンを半分閉めた。それでも眩しいくらいに明るい。

暖房はついているのに部屋は底冷えして、僕は下半身をさするようにして温めた。そういえば昨日の夜に同じような寒さのなか友人と映画を見たのを思い出した。アメリカの自動車会社がレース用のマシンを開発して、イタリアのライバル会社と戦う映画だ。

 

これからベッドに倒れて眠りにつく僕はきっと夢を見ない。

意識の暗闇の中を一人、嵐が過ぎ去るのを待つ子供のようにじっと耐えているのだろう。

目が覚めれば、きっともう夕方で、太陽の位置が今とは反対側にいるだけだ。相変わらず僕の部屋には現実感がなく、昨日の出来事は時間軸の右の方に居たり、左の方に居たりする。

それでも僕は、とりあえずは生きていかなくちゃいけないし、そうするほかないのだ。

目が覚めたらまた本を読むことにしよう。そうでもしなければこの現実感のない空間で僕は紅茶に混ざりゆくミルクのように、渦巻状に溶けていってしまいそうだった。

 

今日は風は強く冷たいが、非常に天気がいい。夜を共にした友人らがいい一日を過ごせれば、僕はそれでよかった。