何とはなしに、話半分

男子学生の考え事などをお送りするところ。

融け、散り、褪せ行く

強い風が窓をしならせる音で目が覚めた。

窓の外では干していたタオルが飛ばされまいと必死に物干し竿にしがみついている。

思えば今週はずっと天気が悪かった。気圧は低く、寝ても覚めても頭が重い。

唸る隙間風の音が、僕の身体の悲鳴のように聞こえた。

 

春の初めに吹く風には、確かに真冬のそれとは違って、身を刺すような寒さはない。しかし、何となく柔らかそうな春のイメージとは反対に荒々しさを含んだ風だ。

四月に入ったというのにまだまだ寒く、冬が終わったとは感じ難い。上着を手放してシャツ一枚でも過ごせるようになるまでに、あとどれほど時間がかかるだろうか。

それでも、目線を少し上げれば満開の桜が空を埋めているし、川面は反射した桜でいくつもの絵の具が混ざり合ったような不思議な色をしている。

 

僕はずっと、春が苦手だった。

春はいつも、僕に孤独を与え、冬以上に僕の身体から熱を奪っていく。吹き荒れる風が僕の身体を乱暴に通り抜けていくせいで、僕の体温はまだ冷たい春の空気に融けていった。

春になれば大切な人も旅立って行き、僕だけが取り残されていく。「新生活」という言葉が街を覆い尽くすのが、僕はいつも寂しかった。僕は一度も新しい生活なんて望んでいないのに、僕の生活も周りの景色も勝手に更新されていってしまう。

 

遥か昔の人々にとって、時は循環するものだったという。冬が終われば春が来て、その次は夏が始まる。夏が終われば秋が顔を出し、秋が過ぎれば冬がまた訪れる。ただそれだけの繰り返しだった。

時間が直線上に伸びていくようになってしまったのは、一神教的な価値観が普及してからだろう。まるで何らかの目的があるかのように時間は進んでいき、似たような景色だとしても同じ時間は二度とやってこない。どれだけ留まっていたくても、時は勝手に進んでいくのだ。

 

僕にとって春は出会いよりも別れの方が多く、僕の心には穴が空いてしまったように隙間ができる。そこには春の風が殴り込むようにして入ってくる。震えるほどにひどく寒い。

張り詰めた冬が破れてそこから春が広がっていくのと似ている。冬の寒さはそうして時間をかけて融けてゆく。

強い風が一頻り吹いた後は、しばらくの間冷たい雨が降る。その雨でせっかく咲いた桜も花を散らし、路上や川面には薄桃色の膜がかかる。

そして僕の暖かく幸せだった記憶も、気付けば膜がかかったように色褪せてゆく。

 

自分では同じところに留まっているつもりでも、周りの景色が変わっているからどうやら動いてしまっているようだ。時間を表す数直線はずっと右に伸びていて、僕は嫌々でもその向きに歩みを進めている。

皆は先に行ってしまって、僕が帰る場所を作ろうと思っても留まることはできない。元に居た場所には誰にも戻ることができない。その隙間にも春の風が吹き込む。

 

僕はベランダに新たな洗濯物を干しながら外の景色を眺める。空は白く曇り、まだ散らずに人々の視線を吸い寄せている桜の枝先が風に揺れている。花びらがいくつか風に乗って飛んでいった。その先はもう見えない。

花を散らす冷たい雨が降るのは、天気予報によれば五日後だった。僕は残りの五日間を、まるで自分が散りゆく花びらのように儚い気持ちで過ごすのだろう。この鉛色の空をした春は二度と来ない。別の鉛色をした春が、下ろしたてのシャツを着て恭しく挨拶をしにくるのだ。「どうも皆さん、初めまして」と。

 

やわらかい風が吹いたら、と口に出して歌ってみる。いつもこの歌を聴くと僕はある人を思い出す。今頃何をしているだろうか、想像もつかない。

一度この手のひらから零れ落ちてしまった人と再び会うのは容易いことではない。それはこの春という季節が教えてくれたことだ。

 

身体が冷えてきたので、さっさと洗濯物を全て干してしまって部屋に戻った。

今日は何にも予定がない。新しい学生証を受け取りに行くのは明日でもいいし、教授からのメールが届かない間はやるべきこともない。

風邪をひくならこんな日がいい。そんなことを思いながら僕はベッドに倒れ、もう一度眠りについた。