何とはなしに、話半分

男子学生の考え事などをお送りするところ。

細胞は入れ替わっていくけど僕はこのまま

僕を形づくってきたもの。思い返してみればたくさんのものがある。

 

サッカー。中学生になりたての頃はバルセロナのサッカーに憧れた。その次はイングランドプレミアリーグに。僕の頭の中ではチームの司令塔として活躍するシーンがロングランで上映されていた。もしくは無尽蔵のスタミナでチームに貢献する中盤の要として。

出来もしないのに、シャビやセスク、ランパートの真似をしようと日々ボールを蹴っていた。

 

音楽。これはたぶん僕の多くを占めている。小さい頃に車の中で聴いた懐かしのJ-POP。ドラマの挿入歌になっていて知ったQueen。兄の影響で聴き始めた日本のロックバンドの数々。そして高校生になってから友人に引きずられるようにしてのめり込んでいったHR/HM。父の青春を追体験するように聴きかじったフュージョンやファンク。

大好きなギタリストは今でも、彼らが何歳になったって僕のヒーローだ。スラッシュにムステイン、今は亡きアレキシ・ライホ。そして誰よりも憧れた川崎亘一。

ベーシストだって負けていない。ギーザ―・バトラーにビリー・シーン、ヴィクター・ウッテン。もちろん原昌和は日本一だ。

 

およそ僕の10代までの生活は今までに挙げたものでできている。もう少し広げてみると他にもあるかもしれない。

 

村上春樹の初期三部作。何度も読み返したせいでいくつかのセリフを覚えてしまった。これらの小説のおかげで僕は大学生活を少し豊かにできたかもしれない。けど視点を変えてみれば随分と堕落していたかもしれない。

ヨルムンガンド。漫画作品の中で最も好きなものだ。初めて自分の小遣いで全巻揃えた漫画かもしれない。全11巻とそれほど長くはない物語だけど、今でも読み返せば同じように興奮できるし、何度だって考えさせられる。そんな作品だ。

ソニックアドベンチャー2バトル。ゲームキューブ時代の名作ソフトだ。僕にとってはソニックシリーズ、ひいてはアクションゲームにおける金字塔であり、いまだに当時の楽しさを追い求めてゲームをしているような感覚がある。BGMも大好きだった。リマスター版が出たら寝食を忘れてのめり込むことだろう。

一眼レフカメラNikonのD750という機種を大学生の時に買った。街の景色を切り取ったり、季節を象徴するような風景を写したり、モデルの子の魅力をどうにかして伝えようとしたり、色々な写真を撮ってきた。そしてこれからも撮っていくのだろう。

 

忘れかけていたが、他にもいくつか、ここ数年の僕の生活に欠かせないアイテムがあった。

煙草。はじめの頃はラッキーストライクを吸っていた。その後ピースやクールに寄り道をしていたが、最終的にはハイライトのメンソールに落ち着いた。今では紙巻き煙草を吸う機会は少なくなったが、それでも一箱吸い終わる毎についつい買い足してしまう。手元に置いておきたくなるのだ。

コーヒー。大学の三年生くらいまではむしろ苦手だった。試験勉強のお供として、当時の恋人に付き合って飲んでいたらいつの間にか好きになっていた、という絵に描いたようなストーリーがあったりする。特にマンデリンが好みだ。

エナジードリンク。これはかなり最近の僕を満たしてくれるアイテムだ。春から定期的にケースでまとめ買いをしてしまい、僕の家の冷蔵庫には常にこいつがいる。アルコールに強くない体質のおかげで酒にはあまり溺れてはいないが、カフェインには強いようで代わりにこっちを止められない。

 

今までに書き連ねた物たちは、きっと僕にとって大事なもので、僕の体の一部であるかのようにどれか一つを捨て去れと言われても難しいのだ。辞めてから随分経ったサッカーでさえ、今でも部活をやっていた時の夢を見る。それくらい脳に刻み込まれているのだろう。

僕の細胞は日に日に生まれ変わっている。健康的な食事を取っていないせいで、ご機嫌はだいぶ良くないだろうけど、それでも僕の体の組成は毎日少しずつ変化している。

人間の細胞はおよそ7年で完全に入れ替わるというのを読んだことがある。そうだとしたら僕は今までに3人の僕を代謝し、これで4人目ということになる。

成長も老化もしているという感覚はあるけど、心のどこかでは僕は変わっていない、昔のままだという気もしている。

それはきっと、細胞が入れ替わっても僕を形づくってきたこれらの物が今も心の中で息づいていて、死んでいないからだろう。

 

昔から好きなものに今もしがみついているようで、進歩が無いと感じられるかもしれない。

新しく好きになったものをいつまでも好きでいられると思い込んでいるだけで、すぐに飽きてしまうと思われるかもしれない。

それでも僕は好きなものに囲まれて生きていたいし、皆にも好きになってもらいたい。そして皆の好きなものを僕も好きになれたらもっといい。

 

新しい友達ができたら、まずはこう質問してみるんだ。

「君の好きなものは何?」

質問の意図が明確でなくて相手を困らせてしまうかもしれない。そのときは自分の好きなものを語りだそう。

相手の口から言葉が溢れて止まらないかもしれない。そうしたら喜んで聞き役に徹しよう。

誰かを形づくってきた「好きなもの」からお互いのことを知れるなら、それ以上に幸せなことはないだろうから。

壁と窓ガラス、そして冷たいサラダ

まだ少し先のことだろうから、と思っていたのに、もう三月も終わりに差し掛かっている。僕はまた決断を先延ばしにして、惰性と慣性のままに時を過ごしていた。

大学院を休学して、半年が経った。僕は何かを変えることも、何かを決めることもできず、そして何かを続けることもできなかった。

 

誰かと会うことも少なくなり、液晶画面と向き合うだけの日々を暮らし、誰もいない部屋の中で僕は今も尚もがいていた。

この半年間、いや一年間で得られたものはほとんど無かったけれど、失ったものはいくつかあった。形だけ続いていた恋人と漸く別れたし、とても良くしてくれていた職場を離れることにした。

前に進むため、といえば聞こえは良いかもしれないが、単に終わりが来たというだけのことだった。

 

暖かくなっても僕は冬用の布団に潜り込んで、朝日が昇ってくることに怯えたままだった。

何かを飲み込み続けていないと喉が詰まってしまいそうだから、僕は実に色々な飲み物を胃袋に流し込んだ。いつも通りのコーラや紅茶に加えて、エナジードリンク、野菜ジュース、オニオンスープ……

一日あたりのカフェインの摂取量だったら町内一になれたかもしれない。そんなくだらない記録を伸ばし続け、僕の胃には様々な液体が春に吹く風のように荒々しく流れ込んでいた。

 

ここのところ、僕の意思や選択はすべてが裏目に出ていたように思える。僕がパソコンを買い換えようと思えば店頭からグラフィックボードが消え去り、外に煙草を吸いに行こうとすれば冷たい雨が降り始める。そんなことばかりだった。

かといってやりたくないことをやらずに済む、ということはなく、僕は工場のベルトコンベアに流されるようにして四月へと進んでいた。四月が来れば授業が始まり、またたくさんの文字に溺れるような生活が待っているのだ。

 

僕は昨日観に行った映画のワンシーンを思い出す。主人公の少年とその友人の少女が、同じベッドの上に背中合わせで横たわっていた。肩が触れ合うかどうかという距離の緊張感がスクリーン越しでも伝わってくる。もう久しく味わっていない感覚だ。

気付けば僕はいつの間にかすっかり孤独に慣れてしまっている。肩を寄せて眠る相手がいないことも、目覚めた時に隣に誰もいないことも、今の僕にとってはそれが普通になっていた。この一年間で僕の生活は反転してしまったみたいだった。

初めのうちは、寂しいながらも快適だった。狭いベッドを独り占めできるし、酷い寝癖を見られることもない。眠れなくても、電気を点けてゲームをしたり、本を読んだりすることができた。誰にも気遣うことなく、僕はやりたいことを好きなだけできた。

そうしている間に僕は誰かと一緒にいることの暖かさや心地よさを忘れ、暗く冷たい雪穴に潜り込んでいくようにして孤独を肺いっぱいに吸い込んだ。もう僕は暖かな日向に戻ることが怖くなっていた。一度戻ってしまえば、僕の周りにある張り詰めた氷が融けて消え、僕は僕の形を保てなくなってしまいそうだった。

 

暗闇に閉じ籠っていたいと思う僕の弱さは、誰にも伝わることなく部屋の中で燻り続け、埃となって床に積もっていく。

僕はそれを掃き捨てることもせず、淀んだ空気と一緒に吸い込むせいで鼻を詰まらせる。味も匂いも、窓ガラス越しに見る景色のようにぼやけて感じた。

 

昨日見た映画のように人々がいなくなった世界に思いを馳せ、今とそれほど変わらないかもしれないと妙な親近感を覚えつつ、僕は夕食の冷たいサラダを冷えた体で噛み締めていた。

過去に潜り、朝日に託し

僕は最近夢中になっていたアニメを見終わり、次の餌を探し回るかのようにノートパソコンの画面を睨んでいた。

僕が生まれた頃から放送されている古いシリーズ物のアニメを見つけ、僕は懐かしさと娯楽を求めてそれを再生する。ざらついた感のある映像と古臭い効果音が僕を九十年代へと連れ戻していく。そんな様な感覚だった。

 

ふと携帯に目を遣ると、日付が変わるころだというのに珍しく着信が残されていた。そしてその相手には心当たりがあった。僕はすぐに動画の再生を止めて電話を折り返した。しかし別の誰かに電話をかけているようだった。

僕は落胆と安心が混ざったぎこちない笑みを心に浮かべて、携帯を置いてまた動画を再生しようとすると、今度はすぐに相手から着信が入った。僕はそれを受ける。

 

電話の声の主は、僕が思っていた通りの人物であった。彼女は最近何かと僕を頼ってくれるようになった。僕自身がそうなるように行動してきたつもりだったし、それを喜ばしく思っていた。誰かに必要にされる感覚に飢えていたのかもしれない。

 

要するに、近隣から怒鳴り声や物音が聞こえてきて、怖くなって電話をしたとのことだった。怖さが紛れるように僕らは色々な話をした。明日の予定、少し前に見た映画の話、月末に控えた彼女の引越しと、時間軸を自由に飛び回りながら。

しばらく話していると、彼女の声は少しずつ和らいでいき、寝息が聞こえてきた。僕は物音で起こしてしまわないように静かにノートパソコンを開き、ニュース記事を読みながら彼女が完全に寝ついたのを待って電話を切った。

 

決して同じ空間にいたわけではないけど、僕は確かに誰かの心細い瞬間を共に過ごし、そして最終的には眠りに導くことができたのだ。

僕は小さな充足感を胸に、冷めてしまった紅茶を飲み干し、そのままニュース記事を読み漁った。僕の知らないところで、今も政治家や官僚が夜通し仕事をしているのだろう。

そんな彼らもいつかは眠りに就くのだと思うと、彼らも新聞の紙面を埋める文字列ではなく血の通った人間であることが思い出される。僕は彼らのために何をしてやれるだろうか。

 

一度外の空気を吸いに出て、そんなことを考えながら煙草に火を点ける。僕がしてあげられることは、ここにあったじゃないかと思いつく。

僕が煙草を吸う。そして箱が空になって、僕はまた煙草を買う。税金が支払われる。これでいいのだ。

僕は彼らにとってはただの一市民であり、特別な何かではない。彼らの悩みを聞けるわけでも、彼らの疲れを癒せるわけでもない。僕にできることはとても小さい。

だからせめて、この一本は彼らに対する労いの気持ちを込めよう。そんな気分だった。

 

僕はすっかり冷えた体を震わせながら家に戻り、歯を磨いてベッドに潜り込んだ。羽毛布団に包まれた体が熱を再び取り込むまでの間、僕は目を閉じて色々な人の顔を思い浮かべた。

相変わらず僕の隣には誰もいないし、誰に隣にいて欲しいのかも分からなかったけれど、今夜は不思議とそれほど寂しくなかった。

少しの間、誰かの声を聞けたからかもしれない。

 

そんなお礼として、彼女にとって来る日が優しく暖かいものになることを願い、僕は眠りに就くことにした。

寒波と痛み、蜃気楼の夜

寒空の下、僕は渋谷に向かって歩いていた。首都高の高架下を一人、少し昔の歌を車のエンジン音に紛らせて口ずさみながら、時折煙草の煙も吐き出して進んだ。寒さのせいで吐く息は白く、煙草があってもなくても同じような光景だっただろう。

 

先程までの三時間ばかりは、僕は一人ではなかった。決してくっついて触れ合っていた訳ではないけれど、確かに僕の隣には温もりがあり、僕はそのおかげで凍えずに済んでいたのだろう。彼女と家の前で別れてから自動販売機で買ったお茶は瞬く間に冷えていった。

僕はジーンズのポケットから携帯を取り出し、近くに住んでいる友人に電話をかけようか少しの間逡巡した。けれど、結局かけずに渋谷を目指して歩き続けた。時刻は二十二時を回っていたし、明日も平日だ。仕事終わりに近辺で飲んでいたとしても、もう今頃は家に帰って風呂に入ってしまっているだろう。

 

まただ。また僕はこの行き場のない人恋しさに襲われて、逃げるように歩き続けるのだ。向かう方角こそ決めているものの、目的地は定めずにひたすら革靴の踵を鳴らして歩いた。規則正しく鳴る足音と心音が、僕の中から寂しさを追い出そうと徐々に速くなっていくのが分かる。それでも風は冷たく、僕の細胞の目には見えない隙間に入り込むようにして通り抜けていった。僕はマスクの下で歯を喰い縛る。そのすぐ後に頭が鈍く痛む。痛みは鼓動に共鳴して増幅されていく。

 

そうして歩いているうちに、僕は渋谷の駅近くまできていた。まだまだ歩き足りなかった。そのまま明治通りに沿って進み、表参道まで行くことにした。一ヶ月ほど前に通った時とも景色は変わっていて、すっかり年の瀬に近づいてしまっていることを実感させられる。街は眩いイルミネーションで彩られ、どこへ行ってもクリスマスソングが流れている。この時間になれば辺りには手を繋いだカップルの姿が目立ち、あるいは数人の楽しげなグループが歩道に鈴なりに歩いている。そんな中でも一人の僕は、その脇を掠めるように追い抜いて、地下鉄の駅に続く階段を早足で下った。革靴で歩き続けたせいで、脹脛が少し張っているのが分かった。

 

電車に揺られる間も僕の中を満たす寂しさは消えることなく、じわりじわりと僕の心を蝕んでいく。一つ、また一つと駅を通り過ぎていっているはずなのに、これっぽっちも進んでいる気がしなかった。車内の暖房から放たれる熱気と、少しだけ開かれた窓から聞こえる轟音が、僕の周りから現実感を奪っていく。必要以上に気をつけていないと、乗り過ごしてしまいそうだった。電車が九段下の駅に着いてから、僕がドアから飛び出すまでの数秒が、やけに長く感じられた。実際に、僕の動きはひどく緩慢だったのだろう。

 

東西線のホームまでの階段を僕はやっとのことで登りきり、電車が来るのを待った。周りに人の姿はほとんど無く、見えたのは駅の構内を巡回している職員の眠たげな顔だけだった。体格に合わず弛んだ制服が、彼の疲労感を象徴しているようだった。僕はまた数駅の間電車に揺られ、同じように孤独に蝕まれながら降りる駅を間違えないように歯を喰い縛っていた。

 

家に帰ると、僕は着ていた服をハンガーにかけながら今日のことを思い出す。人と会うために外に出ていたのに、持ち帰ってきたのは寂しさだけだった。まるで彼女と一緒にいた数時間が夢や蜃気楼のように感じられる。暖房を点け、部屋に暖かい空気が流れてきても、僕の手は冷えたままだったし、僕の頭は鈍い痛みを発し続けていた。結局は全てがいつも通りだった。

 

僕は痛みを忘れ去るべく水をコップに注いで飲み干し、歯を磨いてベッドに横たわった。疲れ切った脚にじんわりと血が巡っていく。目は冴えていてしばらく眠れそうにないが、僕はこのまま目を閉じて動かないことにした。朝になったら洗濯をしよう。そんなことを考えながら。

赤い実を一つ頬張れば

十月。長い間僕らの脳を茹だらせてきた夏の熱はとうに冷め切っていて、代わりに冷たい秋の空気が身を擽る時期だ。

今では台風なんて夏の風物詩でも何でもなく、行楽日和の折に現れては人々に嫌がらせをする秋の災厄になりつつある。

そしてその影に潜むようにして、僕の誕生日が訪れる。それが十月という季節だった。

 

ある日エレベーターに同乗した中年のサラリーマンが同僚の男にこう嘆いていた。

「昔はニュースの台風情報なんて八月に見ていた。今に台風は十一月に来るようになる。」

もしも彼の云うことが事実になったら、僕の誕生日はもう少し温もりに溢れたものになっているのだろうな、と僕は思った。

 

春に大学を卒業し、夏の初めに大学院の休学を決めた僕の秋は真っ白だった。これから先のことを考えていない訳ではないが、何一つ確定した未来などなく、唯一確からしいことはといえば一年に一つずつ僕は年老いていくということだった。

僕はそんな不安を掻き消すように数冊の本を買い求め、這い寄る寒さに捩る身を包むべく、新しい服を探している。

それでも満たされるのはわずかな心の隙間だけで、僕の体はまだ震えを止められない。

 

これはきっと、誰かが隣にいたとしても変わらないのだろう。毎朝僕の隣で目を覚ます人がいてくれたとしても、僕自身は何も変わってなどいないのだから。僕はゆっくりでも進もうとしていた歩みを止めただけで、新しいことは何も始めていない。

それが大事だと言ってくれる人もいるが、僕は時折これで正しかったのか分からなくなる。正しかったのだと思い込まなければ耐え難い不安に飲み込まれてしまいそうだった。

 

相変わらず朝が来ても眠れない僕の体は、夜が更けても動き続けている。まるで休むことを怖れているかのように僕の体は睡眠を遠ざけている。

僕は少しだけでも体を労ろうと、スーパーマーケットで林檎をいくつか買ってきて、それを剥いて食べた。久しぶりに口にしたその実は甘く、ひび割れそうになっていた僕の腹の中を潤していく。

 

僕はまた一つ歳を取る。ここに至るまでに、挫折したことも諦めたことも多かった。けれどまだ、挑戦したいことや憧れることが尽きた訳ではない。

紅い果実を齧り腹を膨らませた僕は、少しだけ顔を上げることができるのであった。

涼しい風が吹いたら、もし今日君に会えるなら

九月も半分が過ぎ、湿気を多く含んだ風からは秋の気配が少しずつ漂ってきた。夜になれば半袖のままでは身震いをするようなひんやりとした空気が僕の体を撫でていく。

昨日は僕の隣にいた子も、今日の僕の横にはいない。昨日の僕が羽織っていたオリーブ色のジャケットも、今日の僕の肩にはない。

僕はいつもより少し早足で、南池袋から都電荒川線の脇を抜け、目白通り神田川を横切って家に向かった。

 

僕はこういう夜が来ると、たまらなく誰かに会いたくなった。誰かに会っていたその帰り道なのに、僕は別の誰かの声を聴き、別の誰かの体温を感じたくて仕方がなかった。

僕は友人に電話をしようかと思ったけど、迷った挙句やめて近所のスーパーマーケットで買い物をした。強すぎる冷房が季節の終わりを感じさせる店内で、僕は明日の朝食を考えて気を紛らわせようとした。けれどうまくいかなかった。

 

今後、例えば来月にでも、もし僕にとって嬉しいことでも嫌なことでもとにかく誰かに話したくなるようなことがあったとして、僕はそれをあの子に伝えに行ってもいいのだろうか。彼女の住む街に行けば、その笑う顔やあるいは慰めてくれる優しさが僕を迎えてくれるのだろうか。今の僕は、突然彼女に連絡を寄越しても迎えに来てもらえるのだろうか。

久しぶりに、恋に悩む若者のような苦い葛藤が僕の胸の中に渦巻く。これが既に恋煩いであるといえるのかもしれないが、僕はこの気持ちこそが恋愛感情だという確信を持てていなかった。

 

コマ送りのように色々なことが僕の頭を過ぎった。あの店に二人で行きたい、あの坂道を二人で歩きたい、あの映画を二人で観たい、あのことを君に打ち明けたいーー

どの場面も、僕の乏しい想像力では鮮明さに欠け、随分と昔に見た夢のようなおぼろげなイメージしか瞼には映し出されない。

 

昨日や今日の夕食では酒やコーヒーを片手に楽しく談笑していられた自分が、まるでプログレッシブ・メタルの曲の七分目くらいにある朗らかなパートのように、異質なものに感じられる。

そこを過ぎてしまえばまたおどろおどろしい音が鳴り響き、僕はそれにつられて再びぎこちない毎日に戻るのだ。

 

せめて夢の中では、長くもない夢の中ではこんな世界があってもいい。

ーー仕事帰りに君が住む街に電車で向かって、改札を出てすぐに電話をかける。人混みと夜の闇の中に君を見つける。そして君の安心したような笑顔に僕は思わず肩を抱き寄せて、手を繋いで歩道橋の階段を降りていく。早秋の夜風に僕らは冷やかされながら、今日一日の間にあった出来事を大袈裟に話しつつ君の部屋へ向かうのだ。僕と君はエレベーターに乗ると少し静かになって、部屋に入ると同時にキスをする。靴も脱がずにしばらくの間抱き合って、ただいま、お帰りと優しく囁き合うーー

 

明日の仕事までの短い眠りの間に、僕はそんな夢を見られることを天に祈って、窓を開けたままベッドに潜り込むのだ。

外待雨だったら

夕方の天気予報は曇りだった。それでも夜の九時頃からは雨が降るかもしれないから、僕はやっとの事で寝癖だらけの髪の毛を整え、服を着替えて家を出た。

傘を持たずに僕はエレベーターを降りて外に出ると、ちょうどぽつぽつと雨が降り始めた。満員のバスの車両から乗客が吐き出されたような降り方だった。僕は傘を取りに戻るか少し考えたけれど、すぐに止むだろうとそのまま歩を進めた。

 

自動販売機で缶入りの炭酸飲料を買い、それを飲みながら歩いた。雨粒は次第に大きく激しくなり、僕の体を濡らしていく。傘を取りに帰らなかったのは失敗だったかもしれない。街往く人々の憐憫を含んだ視線を振り払うように、僕は勢いよく缶ジュースを飲み干した。

僕は歩きながら夕食の献立を考えてみたが、炭酸で膨れた腹と顔に吹きかかる雨粒のせいで全く何も思いつかない。僕は行く宛てもなく雨に濡れながらふらふらとしていた。

 

八月。長かった梅雨も明け、昼間は雨に代わって日差しが容赦無く降り注いでいる。僕はもともと夏も冬も好きではなかったが、最近はもはや嫌いになっていた。より正確に言うならば、近年特に春や秋が短いせいで、時間があっという間に過ぎてしまったかのような錯覚に陥るのが嫌だった。

 

全く何もできないまま、何も生み出さないまま六月と七月が終わり、僕は低気圧と曇り空に一方的にカウントを取られて敗北した気分だった。不戦敗の方がまだ格好がついたかもしれない。

言い訳もできず、できたとしても誰に向かってすればいいかも分からず、僕は怠惰に塗れて日々を費やした。二十代という晴々しい年齢を生きているというのに、僕の気力は一体どこに消えてしまったのだろう。

食事を摂ることさえも面倒な僕は、人間が飢えて死ぬのに二、三日では足りないことさえも恨めしく思えた。心はとうに枯れ果てているというのに。

 

 外待雨という言葉がある。外待、すなわち農民が領主に隠し持っていた田畑にだけ降る雨、という由来のようで、限られた所だけを潤す雨のことを指すらしい。

 僕が降られたこの雨が外待雨であったならば、僕だけを狙って降らせてくれた雨だったならば、幾分か救われた気もした。

そう思って、確かめるように街路樹の脇をしばらく歩き続けた。けれど、雨は弱まることなく僕の肌を濡らしていく。どこまで行っても雨雲が街を覆っているように見えた。

そうして夏の通り雨に余計な期待をしては勝手に裏切られ、僕は冷えた体で空いた缶を片手に、何もない自宅へと踵を返した。

 

家に着いてすぐに、湿って張り付いたTシャツを脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。さっきまで雨に打たれていたせいで冷たくなった体は、熱い湯を浴びて肌の表面が色づいていく。それなのに僕には生きている実感なんてまるでなかった。

機械的な動作で髪や体を洗い、浴室を漂う湯気に視線を潜らせる。どういう訳か今は何も考えたくなかった。

タオルで水気を拭きながら僕はグラスに水を注いで一息に飲む。熱くなった体の中を冷えた液体が降りていく感覚が、やけに生々しく僕の体を伝う。

 

髪も乾かさずにベッドに倒れ込んでしまいたい気持ちを抑えて、僕はドライヤーを取り出し轟音に髪をなびかせる。

髪を乾かしている間と洗濯物を畳んでいる間は無心になれるから好きだった。余計なことは何も考えずに澄んだ気持ちでいられる、僕にとっては数少ない時間だ。

 

石鹸の香りに身を包んで、僕はそのまま横になった。もう何もしたくない。食事も取らず、明日のことも思い出さずに瞼を閉じた。しばらく歩いたせいか、足先からじんわりと熱が伝わる。とても心地よかった。深く暖かい海に沈んでいくように、僕は眠りに就いた。

外ではもう雨は上がっていた。