八月六十一日
あらゆる歌や物語の中で、永遠に続く夏が描かれることがある。いわゆるエンドレス・エイトというものだ。
八月がずっと続くとしたら、今日は表題の通り八月六十一日だった。
僕にとって夏休みは苦痛でもあった。
特に今年はやるべきことがあるような無いような、忙しいような忙しくないような、はっきりとしない時間が多くを占め、僕の心は麻酔で痺れたような感覚に陥ろうとしていた。まるで劣化したゴムのように喜怒哀楽が衰えていく。
本を読んで新しいことを知ったり、音楽を聴いて新しい曲と出会ったりする度に、自分の世界は少しずつ広がっているのかもしれない。
しかし、僕の知識的な外殻が広がるにつれて、中心たる僕の心はますます孤独を感じるような気がしていた。
身体の外側まで知識の殻は広がっていき、僕は自身の大きさを錯覚する。しかし心は身体の奥深くに眠っていて、そのとてつもなく広い隙間は僕の心をさらに内側へと圧迫していた。
考えれば考えるほどに胸が苦しくなった。
僕は今何を見ているだろうか。目の前のディスプレイ?卒業後の進路?あるいは五年後の自分?
きっとどれもが不正解だが、正解もないように思える。何も見えていない。
誰かと居ても寂しく、何かを食べても虚しい。煙草を吸っても以前ほど美味しく感じられない。
陳腐な表現ではあるが、「僕の歯車は一体どの時点から狂ってしまったのだろう?」と考えたこともあった。
考えているうちに結局、「生まれた時」にまで遡ってしまった。そうでないならば、その時点に戻りたいと思えるはずだったからだ。もしもタイムマシーンに乗れるチケットを手に入れたとしても、きっと他の誰かに譲ってしまうだろう。
生まれたこと自体を間違いだったと思い込むことで、これまでの人生における失敗や挫折を予定されたものにできた。そうすれば気が紛れると思った。
こんなにも不毛なことばかり考えているから、夏休みが永遠に続くだなんて僕にとっては真っ平御免だった。
結局のところ、前に進むのも立ち止まっているのも怖いだけで、後ろを振り返ってばかりいる。そして仄暗い過去を見て余計に苦しむ。繰り返しだ。
何が起きたら事態は好転し、これで良いのだと思えるのか、今の僕には分からないのが正直なところで、明るい未来を想像する力が極端に衰えている。
先のことを考える、あるいは明るいことを考える時は脳のどの部分が働いているのだろうか。きっと僕のその部分は砕いた胡桃みたく硬く小さくなっているのだろう。
大好きだったはずのコーラを飲んでも今は味がしないような気がする。あれだけ甘いはずの液体を流し込んでも脳はエンドルフィンを分泌しないのだろうか。心が落ち着く気配もなく、炭酸が僕の胃の中のpH値を下げていく。
「『効きます』と謳われたあらゆるサプリメントは 胃の中で泡になって消えた」という歌詞を思い出す。
別の歌だが「食傷気味の胃に優しい野菜も探しておくれ」なんて言える相手は、今は遠い場所で寝息を立てている頃だろうか。
野菜を多く摂り身体の細胞を労ったとしても、胃酸やら煙草やらで彼らはすぐに傷だらけになってしまうことだろう。
孤独な夜は相変わらず苦手だし、早く眠りについてしまえたらどんなに楽だろうかと考えながら、キーボードを叩いては溜め息を吐く。
苦い八月六十二日の始まりになってしまった。